1990年代 沖縄で活動していたアマチュアバンド “BlackList”
改訂3版


曲名 「不良少年」
全てはこの曲で始まった。




1992年頃から1996年頃にかけて沖縄で活動していた、私たちのバンド
「Black List」
です。

冒頭の映像は1993年頃の初期(2期)メンバーでのライブ。ちなみに、向かって左のベースが私「AYZZY」です。

はじめにアップしていたファイルは取り急ぎ作成したものでしたので、ここいらで見直しをかけてライナーノーツ風に 仕上げてみようかと。バンドの来歴は触り程度に縮小し、曲のアウトラインを中心に進めていこうかと。
と、いうことで。
まずは我がバンド「ブラックリスト」の変遷というか歴史というか、その辺から。

1990年代に航空自衛隊、沖縄は那覇基地の、83航空隊整備補給群修理隊の隊員達の有志が 集って発足した音楽サークルっぽいものがその始まりです。はじめは普通に集まってワイワイと フォークソングとかハードロックとか、そんな感じの楽曲を プレイしていました。
ちょうどそんなときに私が83空に配属になり、さくっと参加し、いつの間にかメンバーも流動的な ものから固定化され、オリジナル曲を作って、みたいな感じになっていきます。

そんなある日、とあるアマチュアバンドの全国勝ち抜きコンテストに応募する事になりました。 結果としてこれが1つのターニングポイントとなるのですが…
そのコンテストとはNHK主催の「BSヤングバトル」というやつです。沖縄地区予選で、 現役自衛隊員バンドという異色のメンツで参加する事になりました。

で、参加することになったはいいが、ここで重大な問題が起こります。
なんと、参加直前に私にのっぴきならない事情ができて、参加できなくなってしまいます。
バンドそのものは、発足当時からの別のメンバーが代役として参加するので問題にはなりませんでしたが、 これが後々、私の人生そのものの分岐フラグになろうとは、この時私自身も思ってもみなかったことです。

さて、結局TV初出演は出来なかった私ですが、バンドには何事もなく復帰します。
これが契機になったのかは定かではありませんが、活動の場が「基地内」から「シャバ」へと、徐々に移行 するようになります。
この頃のメンバーが、映像にある2期メンバーで、この体制で那覇市内のライブハウスめぐりをする事に なりました。
この時には音響関係の人のツテで、沖縄民放テレビに出たり、ラジオにも出たり(ラジオでは私、一言も喋りません でした…)と、精力的に「広報活動」を繰り広げていました。
やがてこのメンバーでの活動にも限界が見えて、自然とメンバーが入れ替わっていく事になりました。

バンマスでありボーカルのリーダーと私以外のメンバー、ドラムとリードギターが新たに加わり、ここに “Black List”としての最終形であり最高のメンバーが揃う事になります。

新加入のメンバーの技量は半端ではなく、これがバンドのレベルを一気に引き上げる事になります。
それによって活動の幅も、イベントでのライブなどにも参加し、さらに精力的に動く事になるのですが…
いろいろな制約があったり、またバンドのジャンルも当地ではメジャーたり得ず、局地的な高い評価はあったものの、 新しく出来た曲の完成度とは裏腹に認知度は横ばいが続く事になります。

やがて、様々な事情により私がバンドを去り、リーダーが渡米し、その後転勤になったりして、結果として “Black List”は消滅することとなりました。


そんな我が愛するバンドの遺産を紹介します。
順不動、適当です。
曲ごとにそのアウトラインを説明していきましょう。


「たんぽぽ」

最後のオチはお約束、という事で…
1993年頃、第2期メンバーによる沖縄「スターボウ」特設会場でのライブ映像。
この曲は子供をタンポポの種に喩えた、未来へと羽ばたく子供達に贈るメッセージソングです。
親が、親として子供達に対してできる事ってのは、実はそんなに多くはないと思います。
養って教育するなんてのは、問答以前の当然の事であって、それは親の責任でもあり生きる意味そのものでもあると。
言ってみれば、人は子供を授かった瞬間から、自分の残りの人生を我が子の為に費やすってのが、現代社会では あるべき姿なのではないかなぁ、とも思います。
離婚して子供とろくに会っていない私が言うのも何ですが…
「親はなくとも子は育つ」
なんて言葉がありますが、これは放置しても勝手に生きていくって意味ではもちろんありません。
教えなくとも
「大人を見ながら成長していく」
って意味です。たぶん。
そこを履き違えているバカ親ってのがいたりしますよね。
もちろん、そんな外道は極々一部でしかありませんし、殆どの人は親となれば子供に幸せになって欲しいと 願わずにはいられないはずです。
一方的な、押し付けのような優しさとはちがう、人生の師としての愛情(優しさと厳しさ)を常に子供に 教える事で、きっといつか子供はそれに気づくんじゃないかな、と思います。
それこそ、不良少年でもやんちゃボーズでもいいと思います。人としての道を踏み外さなければ。


「だけど愛してる」

1994年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
この曲は端的に「遠距離恋愛」を唄った曲です。
歌詞の部分は私は一切係わっていませんが、私自身「遠距離恋愛」というものにただならぬ感情を抱いていますので、 この曲への想い入れはまた相当なものがあります。
曲を構成する際ギターソロ部分を変調しましたが、これがまた見事にハマって曲をより一層盛り上げています。
携帯などの普及で、遠く離れた人との心の距離が縮んだように思えますが、やはり触れ合えないというのは どれだけ声を聞こうとメールを読もうと、遠く離れているんだと実感してしまい切ないものがあります。
そんな心情と切なる想いを歌い上げた佳曲です。


ちなみに、不思議なものでこれに映像を加えると、また雰囲気も変ってきます。
下の動画は某恋愛シミュレーションゲームの遠距離をテーマにしたキャラクターをイメージとして作製してみました。
このゲームをプレイした人なら、なんとなく雰囲気は伝わると思います。


MAD ときめきメモリアル2 佐倉楓子 「だけど、愛してる」

う〜む、なにやらかなりマニアックな感じです。
でも、いい感じなMAD動画となりました。自画自賛。


「HERO」

1995年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
この曲は冒頭の「不良少年」とほぼ同じ時期にできた曲で、我がバンドの重要なマテリアルの1つです。
初期とこの頃ではアンサンブルがかなり変った曲で、これは第3期メンバー加入によって見直された結果です。まあ、 ようするに私の適当なベースを修正したってことなんですが。
初期の頃はベースを裏で弾いていたという、リズムパートの基本を無視した構成だったので。というか、この手の 曲はベースラインの工夫ってとっても難しかったりしますです、はい。
まあ、種を明かせばふにゃふにゃなメロディーをカバーするための苦肉の策だったんですけどね。ドラムの人曰く 「とっても合わせずらいヘンなリズムだぞ」って。
確かに…

曲のアウトラインは、いつかバンドで成功してビッグになりたいっていう、当時の私達のスピリットをそのまま 反映したもので、実際いくつもの挫折を味わって、失望のどん底に何度も叩き落されたけれど、めげずに踏ん張って いつか自分達を笑った奴らを見返してやるっていう感じの詩になりました。
この曲と似たイメージのバラードで「オーディション」という曲もありますが、ロックスピリット溢れるこちらの 曲のほうが個人的には好みです。
まあ、結局の所音楽では挫折してしまった私ですが、それを悔しいと感じないのはこの頃の魂が今の自分にまだ 残っているからなのかなあ、とも思います。
フィールドが違っても、いつかヒーローになりたいと思えるスピリットは大切です。


「Forever Gaia’95」

1995年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
「地球環境問題」が数年前からようやく世界的にクローズアップされていますが、それに先駆けて創られた「エコソング」 というやつです。
悠久の刻を歩んできた母なる星「地球」、その大地を、海を、空を見つめる事で、きっと人の気持ちはこの星と シンクロするはず…
なんて感じの壮大な曲になりました。
元々はリーダーが創ったフォークソングで、それをバンドバージョンにしたものです。
この第3期の曲は、初期のオリジナルから最終楽章で大胆にリアレンジされています。
この頃はキーボードも参加していて、アンサンブルに広がりがでたのも功を奏しています。

ちなみに、この下がその「オリジナルバンドバージョン」のフォーエバー・ガイアです。


「フォーエバー・ガイア」

1993年頃、第2期メンバーによる那覇市内のライブハウスでの映像。
バンドの力量はともかくとして、曲の構成は甲乙付けがたい物があります。
このオリジナルのほうが、一応YU−SENにて全国に流していただいた曲(一部民放ラジオでも流してくれたとか) で、北は北海道、南は当然沖縄まで幅広く展開した数少ない(というか2曲だけでしたが)曲です。


「ライアーガール」

1993年頃、第2期メンバーによる沖縄「スターボウ」特設会場でのライブ映像。
曲はまあ、ようするに、そこいらヘンにありがちなラブソングです。
もうね、笑うしかないくらいこっ酷く女性にフラれ続けた、みみっちい男の詩なんですよ。これが。
つうか、私のことなんですけどね。
私が書いた詩とメロディーを基に、ボーカルの彼がリファインして生まれ変わったのがこの曲です。
「茨城の寒い冬の詩です」というのは、気温の寒さじゃなくて台詞の寒さだったりします。茨城というのは私の隠語でして、 種を明かすと曲のイメージもすっかり違ってきますね…
ちなみに、上の「フォーエバー・ガイア」同様、この曲もYU−SENにて流してもらいました。


「アスファルトは啼いている’95」

1995年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
子供の頃、たぶん誰でも「あんなズルくて汚い大人なんかになってたまるか!」って本気で思った事が あると思います。
ただ、そう思って自分がその頃から持っている「子供目線」で見た「ズルくない大人=現代社会的に不適合な大人」になったとしても、 やっぱり今の子供から見れば、当時自分が見ていたのと同じ「ズルくて汚い大人」なんです。
だいたい、まっとうに生きている人間ばかりがバカにされ、蔑まれ、苦しめられ、 非難・誹謗中傷、事件の「被害者」になってしまう世の中です。
そんな世の中を 子供が見て、誰が将来に希望を持ってまっとうに成長していこうなんて思うんでしょうかね?
そんなことも知ってか知らずか、体裁ばかり取り繕って権力のみを欲する政治家や、本当は子供のことではなく自分の事だけしか 考えていない親、人の気持ちを汲み取ろうとはせず、他人の事など考えず自分の事だけ考えて理解してもらおうとする社会人、 自分だけが正しいと思っている勘違いな知識人、他人を批判することで自己表現できたと自己満足する輩を、 子供達は指をさして笑っている。
と同時に、あんな大人にはなりたくないと 思いつつも、あの程度の大人でもいいんだと思ってしまう。
そんな、本当は誰もが知ってはいるけれど目を背けてしまう世の中を綴った曲です。
ボーカルの奥さんは、本当に世の中を良く見てました。その子供達も、立派な「不良」に育ったと思います。

音源そのものは、まあ、あれです。
もはや修復不可能なまでに伸びきったテープですから、ここまで聴けるレベルにするのにも一苦労でした。
ただ、曲的には第2期とは比較にならない程熟成した感があります。

下は第2期メンバーによる同曲です。聞き比べると面白いです。


「アスファルトは泣いている」

他のメンバーはおろか、私のベースプレイそのものが違います。
はじめの頃は、こういったブギーとか16連符とかはピックを使っていましたが、第3期への過渡期には 一切ピックを使わなくなりました。
理由は2つあって、1つはこの頃に師匠とビリー・シーンとジャコ・パストリアスに影響を受けていた為。もう1つは スラップ(いわゆるチョッパーというやつね)を使うようになった為です。
ただねー、フィンガーピッキングだとね、攣るんですよ、指が…


「孤独」

1995年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
タイトルの「孤独」ですが、イメージとしてはロスあたりの危険な街で生活する人々の様子ですか。
どんなに凶悪そうに見える人でも、その魂の部分は普通の人とそう変りはない、という感じの曲です。
ただ、そのボーダーラインを踏み外したとき、人間として踏ん張るか、人外へと堕ちるか、その人の心境次第 で、犯罪者になるかそうでないかに分かれるのではないか、と。
その踏みとどまらせるものは何なのか… ってな感じです。
まあ、そんな雰囲気もあって、手前味噌ですみませんが、めちゃくちゃカッコイイです!。全てが。
今聴いても鳥肌立ちます。
プレイしていて1番楽しかったのがこの曲です。
スラップ奏法を効果的に使う事を憶えたのもこの曲でした。
ギターソロ部分が物凄く好きで、ベース演奏もこれを意識して控えめにしていました。


「LoveJunkie’95」

1995年頃、第3期メンバー+αでのライブ音源です。
曲のタイトルは某小説からとったそうです。
もひとつ、この曲が創られた背景には、当時の私のちょっと変った恋愛模様がバックボーンとしてあります。
那覇にあったバニーガールクラブのねーちゃんと付き合い、そんで別れて、次にお付き合いしたのがいわゆる「外国人」 でして、当時沖縄は宜野湾周辺に多くあった「フィリピンバー」のオネーチャンでした。
そのバー、いわゆるアメリカ兵相手のバーですから、日本人は殆ど来ない店でして、私が数少ない日本人客だった わけです。そのオネーチャンと私の激しくも悲しい恋が、この歌詞の土台にありますです。
いや、私はこの歌詞のイメージと違って、彼女とは真剣にお付き合いしてましたよ、ホント。
なんで別れたのかってのは、制度の問題とだけ言っておきましょう。
ちなみに、そのバーはバーテンとオーナー以外日本語ダメダメです。アメリカ兵(最狂の海兵隊です)も ケンカっぱやくて怖いです。なぜ私がそんな危険なバーへ行っていたのかというと、こういう店でのライブ もやってみたくて情報収集がてらに。それとフィリピーナ大好きだから。
お陰で当時はマリンコや嘉手納のパイロットにも知り合いが出来ました。ホントは気さくでいい奴ばかりです。
今思うと、よく話が通じたなぁ、と。
それはそうと
第3期のライブでは必ずドラムソロから導入する曲です。
イントロのベースソロは失敗こいてますが、気にしないでください…
第2期のラブジャンキーと比べるとかなりリズムもタイトになっているのがわかります。
ちなみに、バックコーラスは第2期も3期も全て私です。


で、下が第2期メンバーによる同曲です。


「Love Junkie」

まあ、主にメロディーパートが主な違いでしょうか。明らかに違います。
リズムパートのタイトさは別として、やはり前面に出るボーカルとリードギターは重要です。


「日本人は疲れるぜ」

1993年頃、第2期メンバーによる那覇市内のライブハウスでの映像。
なにげにパンク路線も好きだった私達です。
日本人であるが故に、日本の厭な所が判ってしまうのは、これはこれでキツイものがあります。
でも、結局はこの国で生をうけ骨を埋める事に変りは無いわけで、だったら「生きてて良かった」と思える国に したいのは人として当然ではないかと。
でも、それができる人とできない人もいるわけで、できない人はできるのにやらない人の文句を言いつつもひたすら 頑張るしかないわけで、結局疲れるばかり。
そんなある種の「サラリーマン哀歌」です。


「雨になれ」

1993年頃、第2期メンバーによる沖縄「スターボウ」特設会場でのライブ映像。
「男」ってのは永遠のロマンチストで、その程度は女性のはるか上を行っていると個人的に思ってます。
「現実直視」な女性と「ロマン至上主義」な男とでは、思考的に永遠に解り合えるはずもありません。
だからこそ、女性と男の間には感情の繋がりである「恋愛」が生まれ、それが新たな命を繋ぎ時代を紡いでゆくのだと思います。
それはさておき、この曲はそんな男の「ロマン」が詰め込まれた曲です。
現実的にこんなドラマティックな「出会い」なんてのはありえませんが、ありえないからこそ願望として想うわけで、 そんな思いの丈を表した曲です。




と、まあ、こんな所でしょうか。
このバンドに加入した時から、もうすぐ20年近くも経ちます。
当時、本当にいろんな夢を見て精力的に活動していたんだなあと、しみじみ。
飛行機に、音楽に、女に、仲間にと…
それだけ今の私が歳を重ねたんだなあと思うのと、あの頃の何も恐れないくらい自分を信じて突っ走っていた 頃が懐かしいと思うのが入り混じって、なんとも妙な気分になります。
でも、あの頃の自分がいるから今の自分もいるわけで、それが言いか悪いか、幸か不幸かなんてのも考えてしまう こともあるのも事実。
ただ、そんな事は考える事自体ナンセンスだというのも、最近気付けるようになりましたよ。
過去、辿ってきた時間は全て自分がその時々にチョイスしてきた路だし、後悔はしても決して間違いではなかったと思うし、 それらが今後に影響するかしないかは、「今の自分」次第だと思いますしね。
あの頃のスピリッツは決して失いたくは無いもののひとつです。
とはいえ、当時のような気力も体力も、確実に減少しているのも確かなんですけどね…




おまけ

ちなみに、第2期メンバーは全員がF−4ファントムの整備員でした。
私とボーカルが「ぎ装整備(キャノピー、射出座席、エアコン、ブリードエア、フラップ、酸素、ニューマチックの各系統の整備)」、 ドラムが「ハイドロ整備(油圧系統)」、ギターが「エンジン(レシプロ)」といった具合です。
ほんの少しですが、その様子が窺える映像も上げてありますので紹介します。
なお、冒頭でファントムに歩み寄っていく隊員がボーカルの彼だったりします。








なお、Youtubeの私のチャンネルはいろいろあって削除されてしまいました…



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