ジェット戦闘機ヒストリー

誕生から最新鋭戦闘機まで

その2




ミサイル神話の到来

 航空機がその速度性能を引き上げるに従って、従来の空中格闘戦、いわゆる「ドッグ・ファイト」の有用性が薄れてきた ことは、この時代の誰もが感じていた事でした。特に、超音速の戦略爆撃機の存在が可能性として浮かんできた事は、制空権 というものが大きな意味を持たない、という考えに繋がり、それが結果として大陸間弾道弾の開発へと直結していく事に なりました。
ただ、その間にも超音速の戦闘機での戦略爆撃機の迎撃という至上命題は存在しており、もはや戦闘機はそれを撃墜する為の 兵器、つまりは対空ミサイルのプラットフォーム的な役割が大きくなりつつありました。
 すばやく敵機の侵攻を察知し、即座に迎撃に向かい、核兵器を投下される前にこれを撃破する、というのがこの時期の戦闘機 に課せられた任務で、その為に戦闘機には機動力よりも速度が求められ、兵装も機関銃などの固定武装はなくミサイル運用のみ が主流となっていきます。
その最たるものがソ連のMig−25で、戦闘機としては最高の最大速度を持つに至ったのはこうした経緯からで、当初固定武装 を持たなかったのもそういう理由からでした。

 結果としては、アメリカでもソ連でも、超音速で大陸間を渡る戦略爆撃機の開発は中止され、この時期に開発された戦闘機群は 対象を戦略爆撃機から元の対戦闘機戦闘へと移し、その中で対空ミサイルの高性能化へと踏み出す事となります。
この方向性が正しいのか否か、それを証明する争いがすぐそこにやってきました。




リヒトホーフェン

 ユーラシア大陸の南部、ベトナムにおいて内紛が起こり、これにアメリカ、ソ連が介入し泥沼化した戦争、いわゆるベトナム戦争 が起こりました。
 軍事介入したアメリカは制空権確保の為に大量の戦闘航空機を投入しました。中には当時最新鋭機でもあるF−4ファントムの 姿もありました。しかし、一世代前の戦闘機しか持たなかった北ベトナムに対し非常に苦戦を強いられる事になります。
 その理由は、対空兵器としてミサイルしか持たない機体が多く、また北ベトナム軍の地の利を活かした戦術に翻弄された事もあり、 さらにはそのミサイルの信頼性も著しく低下していた事、ミサイル神話の影響により空中格闘戦そのものをおろそかにしていた事も 加わって、最新鋭機というアドバンテージなど無いに等しい状況でした。
 特に、ミサイルによる攻撃ではそのレンジ(相手との距離やロックオンの範囲)が極端に小さく、接近しすぎてミサイルが打てない、 その際に真正面に敵機がいても攻撃する術を持たないという事が、状況をさらに悪化させる事となりました。
 この事が、空中戦における格闘機動の重要性を再認識させ、アメリカ海軍において「トップガン」なる教育コースが設立される 事になったのは有名な話で、また戦闘機においては、F−4にも固定武装として20mm機関砲を装備するなどの策がとられる ことになったのです。

 第一次世界大戦のエース、レッド・バロンことマンフレッド・リヒトホーフェンの残した格闘戦の基本は、たとえ超音速が 当たり前の時代になっても、どれだけ技術が進もうとも何一つ変らないという事を痛感した出来事であり、かのベトナム戦の エースパイロット、デューク・カニンガム達も、それを実感し口にしていました。
 そしてこの事が、世界最強と謳われる戦闘機の開発に繋がる事になります。




群雄割拠

1970年代に入り、アメリカは空中格闘戦に特化した制空戦闘機をリリースしました。
F−14トムキャット、そしてF−15イーグルの登場です。
ただ、F−14については当初の目的こそミサイル神話時代の延長上にありましたが、可変後退翼を持つことで空中格闘戦でも 高い能力を得る事ができたという事実がありますが、結果オーライといったところでしょうか。
 ベトナム戦における教訓、そして次世代を担う高性能な戦闘機、それら概念を忠実に数値化し形にできるスーパーコンピューター の出現など、これらが一体となって紡ぎ上げたF−15は、こと空中格闘戦においては他の追随を許さない程の最強の戦闘機と なりました。
 また、これら新時代のアメリカ製戦闘機の先行を許すことなく、ソ連でも同じような目的の戦闘機を開発し、時期はずれましたが Mig−29ファルクラム、Su−27フランカーといった実力では遜色ない戦闘機を送り出しています。
 さらに、欧州各国でもこれらに対抗すべく新たな戦闘機の開発が行われ、1970年代から80年代後半にかけては、ジェット戦闘機 黎明期のように多様な戦闘機が誕生しています。ただ黎明期と違うのは、すでにジェット戦闘機というものが熟成期にあるということ で、あの時のように頓珍漢なびっくりドッキリメカがない、という所でしょうか。
 猛者たちが時代を担うべく他者と争い自己を確立し頂点を目指す、いわゆる群雄割拠的な時代ともいえます。




ステルス時代の到来、そして未来へ

 航空機がその性能を高めるにつれて、いわゆる視程外射程が1つの戦術となりました。
そうなると、今度はそれを妨げる、あるいは無効にする方法も誕生するのは自然の理ともいえます。
そうした概念を実現したものの1つが「ステルス技術」で、事の発端は実のところ定かではありません。ただ、その技術が 研究されていたのはかなり前からで、一説にはU−2偵察機が誕生した時には実験も進んでいたと言います。
「ステルス」とは、巷で言われるような「見えない」事ではなく、レーダー派などの反射を屈折、あるいは反射角度を変更し レーダーに映りにくくすることが目的です。
 レーダーが役に立たなければ視程外射程もできませんし、敵地への侵攻も容易となります。また赤外線追尾式のミサイルは ともかく、アクティブであろうとパッシブであろうとレーダー誘導式のミサイルは殆ど役に立たなくなるのですからメリットは 大きいと言えます。
 実際のところ、この概念そのものが認知され、航空機の開発に用いられるようになったのは極々最近のことで、1980年代 のことです。その頃にあのステルス戦闘機として有名になった「F−117ナイトホーク」が開発されています。
 ところが、それよりも以前に開発された偵察機のSR−71ブラックバード、さらには超音速時代の申し子F−104も、 ステルス性が高かったりします。
 F−104は単純に投影面積の小ささから結果としてRCSが低くなったという事ですが、SR−71の場合は当初から ステルス性を盛り込んだ設計であったと言われています。
 驚くべきはSR−71設計時にはステルスという概念そのものが理解されていたわけではなく、感覚でそれらを構築 してしまったロッキードの設計陣のセンスといえるでしょう。その棟梁ともいえるケリー・ジョンソンのセンスは 間違いなく常人のそれとは違っていたことの証ではないでしょうか。

 F−117によってステルス技術が開花したことで、以降の戦闘機には少なからずその技術が盛り込まれるようになり、 やがてはそれがスタンダードになって来ました。
 今やF−15すら凌駕する最強の格闘戦闘機とも言われるF−22ラプターなどは、すでにステルス技術を当たり前のように 盛り込んだ設計となっており、それに続くF−35ライトニングUも同じくそれを組み込んだ設計がなされているようです。

 当然のことながら、今後はそれらを無効化する技術も台頭してくることになるでしょうし、それとは別の新たな技術も出現して 来ることでしょう。
 今まだ研究中のポスト・ストール・マニューバーや、それに近似するトリッキーな機動(フランカーの“コブラ”や“フック”、 “クルビット”など)が、物理的な1つの到達点という見方もあれば、ソフト的な技術(ステルスやオフ・ボアサイト能力)に よりさらに進化した戦闘機が派生していくという見方もあります。
 常に技術の進化とともに歩んできた戦闘機ですが、その目的はただ1つ、如何に空中戦で勝つか、です。東西冷戦はすでに過去の事、 紛争などでも用いられるのは対地攻撃が主体の攻撃機という昨今にあって、戦闘機そのものの必要性が問われる時代ももうすぐそこに きているのかも知れません。


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