移り行く時代の中で


百里が原今昔物語


さて、何かにつけ劇的な変化があるだろうと思われる2009年ですが、
そのほんの、極一部の局地的な一例として
「百里基地 配備部隊の変更(入れ替え)」
があります。

航空自衛隊においては、別段珍しくもなんとも無い事なのですが、かといってそう毎年毎年あることでもなく、過去百里の 7空団においては301SQ(SQUADRON=飛行隊)と204SQのトレードもありましたし、207SQの沖縄引越し なんかもありました。
まあ、いずれも今は昔の話になっちゃいましたが。

で、今年。
新田原は5空団からいらっしゃった、その204SQが今度は遠く沖縄は83航空隊へと旅立つ事になっています。
そして、それと入れ替わりに那覇に生息している「尾白鷲」がやってきます。もちろん、尾白鷲こと302SQが装備する 機体はF−4ファントムです。激震じゃぁありませんよ。
つまり、百里の空に再び300番台の飛行隊が肩を並べることはもちろん、戦闘機としてのファントムが帰ってくるのですよ。

ま、これにはちょっとした事情がありまして、ひとつには南西諸島方面の戦力近代化です。
要するに、「チュン」や「チョン」に対する警戒ですな。
「チョン」はともかく、「チュン」の軍備増強・近代化は目を見張るものがありますし、当然警戒すべき事象です。が、 悲しいかな今となってはF−4では抑止効果も見込めないってな事がその理由です。
単純に装備戦力の比較だけを取ってみても、F−4とSu−35シリーズじゃあ如何ともしがたいですしね。
ただ、けっして戦力が劣っているかというとそうでもなく、むしろ302SQはF−4で嘉手納のF−15Cに対し、 訓練で日頃から真っ向勝負を挑んであまつさえ結構な勝率を維持しているとの事ですから、戦術的には遜色ないと言っても 過言ではないですし、これは誇らしげに語ってもよいことです。はい。
ただ、物量にモノをいわせた戦術に対しては、如何に腕が良くともF−4では役不足と言わざるを得ない部分もあります。
Kレシオが1:2と1:4では、単純に2倍の差が出るわけですからね。
装備が限られているわが国においては、物量も脅威の1つなわけですよ。
ニュークリアってのも持ってるらしいしね、チュンもチョンも。

ま、きな臭い話はともかく、302SQのトレード相手が204SQである訳は、7空団におけるF−4受け入れ体制が 既に揃っており、運用が容易な事がその理由です。
ご存知のように百里にはF−4の偵察機型を装備する501SQがおりますし運用維持に関しては柔軟な対応が利くから です。地上設備や部品補給なんかもね。
アラートなんかも、そもそもF−4のために建造したものだし、備え付けのGTCもまだあるのだろうしね。

新田原や三沢でなかったのは交換すべき部隊がなかったから(新田原は教育飛行隊だし、三沢にF−15はいないしね) なのですが、何にしても207SQに続いて7空団から83空へっていうのも、何やら縁深いものがあります。
私自身も、茨城から沖縄へ、だったしね。

本当に個人的な事なのですが、やはり自分としては
「戦闘機=ファントム」
なんですな。スペックとか好みとか言う問題よりも、見てきたり直接携わってきた時間が、ほかの機体に比べても 圧倒的に多い、という事で、ね。
極一部のシステムに関しては、知り尽くしている部分もあるし苦楽を共にしてきた事もあって、そういう意味においても 思い入れってのはダントツなわけです。ましてや、302SQといえばそれこそ私の在籍していた83空所属の部隊だし。

ま、そんなこんなで百里の空に再びファントムが2個飛行隊分揃うわけでして、これはもうノスタルジーに浸ると言う意味 でも、残り少ないファントムの雄姿を瞼に焼き付けると言う意味でも、それを見に行かないわけにも行きますまい。
余談ですが、夜間訓練、いわゆるナイトフライトの時はF−15よりもF−4のほうがパネルライトとかが綺麗で 幻想的だったりします。


ということで本題。


既に全国的に知られている事なんですが、なんか、「茨城空港」とかいうやつができるとかで、それがなんと百里基地に 間借りすると言う事になってたらしいです。
茨城空港の有用性や将来性(特に利便性)に関しては私がとやかく言うことではありませんので割愛しますが、いずれにしても そのお陰でかつての基地周辺の様相は一変してしまい、ウォッチングポイントももはや昔の面影は消え去ってしまっているわけでして。
時代の変化とかいう話じゃなく、これはどう考えても「行政の影響」というやつでしょうね。
もちろん、良くも悪くも、ですけど。

そんな訳で、また27年前と同じように、自分でウォッチングポイントを探す羽目になったのです。
まいっちんぐ。
んで、お正月に坊主が2人通りかかって…じゃなくって、お正月に実家へ帰省するついでに、百里が原を散策 してきました、とさ。
お陰様でGOODかどうかは不明ですが、何とか見る分には良さげな場所もアタリをつけてきましたよ。
もちろん、それはここだけの話。極秘なのですが。
というか、知ってる人にはバレバレですが。


そんな訳で「百里基地ぐるり散策記(今昔いも付き)」いってみましょう。

まず、私的に一番のポイントであるアラートハンガー前ですが…

「2008年12月30日 北山池付近」


…行けません。
通行止めになっていて行く事はできませんです。
ここを右に行くとアラート前ですが、そちらは道が潰されている、と。農家の人はどうすんだ?
仕方が無いので、そこを左に行ってなんかの工事現場をつらつらと。
こんな年の瀬に工事なんてしてないんで、いけないと知りつつも行ってみる。
「2008年12月30日」

昔の農耕地に出ました。画像はそこからアラート前を撮ったものです。
画像中央がそのポイントですが、ポイントと滑走路の間には高く積まれた土砂が。
なだらかな丘に見えるのがソレでして、見るも無残にポイントはなくなってしまいました(悲
ちなみにそのポイント、昔はどうだったか、というと

「1982年頃 アラートハンガー前」

こんな感じで見れたのです。
金網もなく有刺鉄線が張ってあるだけで、実に長閑な場所でしたねぇ。撮影も金網がなかった分 容易でしたし。
ちなみに、画像左に写ってる人は私の親父とシャデ(弟)です。
なお、ここからはこんな風景が見られました。

「1986年頃 アラートハンガー前」










時代を感じます。
T−33のバンナーターゲット曳航なんて、もう見れないですもんね。
このバンナーターゲットは訓練後そのまま曳航し、基地内に落下させたりするんですね、これが。

さて、どうしようと思案しているとエンジンの音が…
J−79の音がして、ファントムが滑走路まで来ました。これはアレですか、偵察航空隊のアラート機のタクシーランナップ というやつですな。
「2008年12月30日 R/W西工事現場」



朝焼けの中を駆け抜けて、彼の者はエプロンに引っ込みました。

さて、この場所はもともと目の前に盛り土があった場所で、逆に言えばここに出入りできれば結構なウォッチングポイントに なるかも知れません。
ただし、ここには空港のターミナルがおっ建つらしいのでどうなる事やら。
てなわけで、そのあたりの風景でも。

南方向俯瞰。画像左端がアラート前

基地内はおおよそこんな感じ。画像左手に空港施設が建設されるみたいです。

ターミナル建設風景。まだまだ基礎段階ですか。

まあ、ここに居ても始まらないので、次のポイントへと移動してみる。
2006年の航空祭レポで、予行の撮影を行ったあたりの場所へいく事に。
工事現場の道を戻り市道に出て北に向かいます。しばらく進むと信号のある交差点に。
ここがいわゆる西門前で、目印として交差点角に「スーパーふじい」があります。
あります。が、既に廃業していらっしゃいました。この近辺唯一のお店だったのに…
考えてみれば、周辺の民家も少なく、売り上げも商売を維持できるぎりぎりだったのではないだろうか?
よく知られている事ですが、百里基地周辺にはこの店を除いて一切食料品を扱っているお店はありません。 あってもかなり遠くにあって不便極まりないところです。
公共交通機関も無いに等しく、これが「陸の孤島」と呼ばれるゆえんでもあります。
ま、仕方が無いですな。時代の流れというものです。

「2008年12月30日 西門前交差点」


なお、この交差点に“戦跡”が一個ありまして、太平洋戦争当時、ここ百里には「百里が原海軍航空隊」が ありました。戦後土地を再接収して設置されたのが今の百里基地です。
その昔の百里が原航空隊の営門(要は基地のゲートです)跡が今も残っています。
コンクリートでできた門柱と扉。

「2008年12月30日 百里が原海軍航空隊 営門跡」

またさらに、道路を挟んだ向いにある食堂屋(現在は弁当屋)には、以前からスクラップされたヘリコプターやT−33 などがゴロゴロとありましたが、現在はこれだけが残ってました。
「2008年12月30日 未だ謎のシコルスキー」

結局、未だになぜあんなにスクラップがあったのかは謎のままです。解体屋だったらまだ判るのですがね。

さて、足を運んで西門に到着です。
ここも一時は結構なギャラリーが集まっていました。
まあ、他に適当なところも無かったのと、場所的に判り易いってのがその理由なのでしょう、きっと。
この西門からちょっと外れた所に、看板が設置してある小高い山、通称「違憲山」があり、かつてはここも ウォッチングポイントの一つでした。
何時からか人が入れなくなり現在ではここも立ち入り禁止となっています。っていうか、当時も立ち入り禁止に なってましたけどね。

「2008年12月30日 西門〜違憲山」



新旧のコントロールタワーが見えます。ランウェイも意外に近し。




違憲山。これ見よがしに立てた看板がよく見えます。防衛省管理地に無断で看板ぶちたてて「違法だ!」って ほざかれても…
どんだけ自分勝手なんだか。

なお、この山からの眺めはどんなだったかっていうと
「1986年頃 違憲山から」

かなりの長球が必要ですがエプロンも撮れました。




ランウェイエンドまで見渡せます。ちなみに21方向は見えませんでした。




春にはこんなコントラストも。桜が綺麗ですが、写真が下手なので台無しです。

西門周辺は林の伐採が進んでいる以外特に変化はありませんな。
という事で、今度は現在最もメジャーな観覧ポイントである「北門」へと。

北門と呼ばれるポイントは、以前は基地正門へと続く道路の路側帯でしかなかったところです。
正門へと続く道路が封鎖され袋小路になり、また滑走路(21エンド)からエプロンまで見渡せる事もあって 多くのギャラリーが集まる場所になりました。

「2008年12月30日 北門」

フライトのある日はこの道路がギャラリーで埋め尽くされます。


なんと、左手にあった野球場が跡形もなくなっていました。


新しいランウェイはかなり近い所にあります。


かつてはここも絶好の撮影ポイントでした。
そこそこの距離があったのでなかなか難しいポイントではありました。
では、かつての画像。モノクロなのは私の拘りです。ネオパンとトライXを使い分けてました。

「1986年頃 北門」

この日は演習らしく、ここでアラート訓練をしてました。

撮影時は時間的に夕暮れだったと思います。この時間帯がけっこう良い雰囲気でした。

夜間はアフターバーナーの輝きが綺麗でした

さて、北門から正門へと向かう道は、現在は遠く迂回されています。
まあ、現在ではそちらがスタンダートなのですが、私達からすれば大回りも甚だ強い感じです。いまだに。
その途中、アクティブが21の時にアプローチしてくる機体がよく見える場所があります。

なんちゃら池と言うらしいですが、ここは一度も使ったこと無いですな。
さて、正門までの一本道に差し掛かった所…
な、なんと、こんなところにコンビニができてました。びっくりです。
需要あるのか?という心配をよそに、結構な客が入ってました。
年の瀬で、こんな僻地で、しかも朝方に、見るからに自衛官ではない人がこれだけ入っているのですから けっこう重宝されているのかも知れません。「スーパーふじい」も無くなっている事ですし。
それはともかく、その一本道もかなり変っていました。もはや何が何だか…
てなわけで出た所が、かつて北門のところと繋がっていた一般道跡です。

進入禁止になってます。
この道路は早くに封鎖されていましたが、封鎖前はそれなりに見て楽しめる場所でもありました。
もちろん、普通に行き来できた場所でした。
そのかつての画像です。

「1986年頃 R/W21エンドの外周道路」

上の道路を反対側(北門方向)より見たところ


こんな感じでランウェイが見えました。遠いけどね。


21へのアプローチはこんな具合。結構高めです。

さて、正門前の道路にも変化があり、かつてあったバッティングセンターと思しきものも無くなり、ここから 見れたランウェイも今では見る事が出来ません。

盛り土(ま、アレの保管場所ね)があって、その間から見られる程度となっています。
そのまま正門をヌルーし、外柵にそって延々と進むと、かつては全国的に有名であった未買収用地、通称「くの字」 ポイントに到達します。
ここは全国でも有数のベストウォッチングポイントでしたが、いつからか土地所有者が立ち入り禁止として中に 入れなくなりました。
聞けば、土地所有者は要するに「反戦地主」との事なのですが、そのくの字エリアに「別荘」を建てて航空祭 の時にはそこで宴会しつつ観覧しているとか。
なんだかなあ…
ま、それはそれとして現在では足を踏み入れる事が出来ないのですが、その入り口は基地の裏方を見るには絶好の 場所となっています。
なかなか近くでは見ることのできないモノも見られたりするかも。

「2008年12月30日 くの字入り口」

なにやらいろいろと書かれています

ハンガーの裏側。一般的になかなか目にする事も無い場所ではないでしょうか。

ハンガー内に格納されているファントムも見られます。

サイレンサー。結構間近に見る事ができます。うるさいよ〜これ。

では、かつてどれ程ベストなところだったのかをちらり。
「1983年〜1986年頃 くの字」

エプロンが一望できました。う〜ん、懐かしい…


バカチョンカメラでこの位。実際見るともっと近く見えます。


このくらいの距離。ほんと目と鼻の先って具合です。


こちらは1986年頃、望遠で撮ったもの。アラートを下番するファントムです。

実はこのあと、もう一箇所秘密のポイントだった場所がありました。
恐らく現在ではすでに立ち入り不可の場所となっているはずです。
そのポイントから撮影したものがこちら。

「1984年〜1986年頃 R/W03エンド」

これもバカチョンカメラにて。見辛いですがこんな感じですです。


135位のレンズでこんな感じです。静かで良い場所でしたけど。


タクシーウェイだと135でこれくらい。与圧電熱服装備ですな、後席。

現在はどうなっているか、というと…
実は、もうこのポイントは入れないのです。いろんな意味で。
という事で、その途中に「偶然」見かけた場所からのショットでも。

「2008年12月30日 某所」

まあ、あれです。アラートです。ピンボケなのはAFだから。なんだかなあ。


ミサイルも見えますな。もちろん実弾です。

では最後のポイントへと。
この最後のポイント、実はかなり以前からベストスポットとして密かに使われていたのですが、何時の間にやら 有名になり、結果として使えない場所になってしまいました。
まあ、道も細いし危ないしね。仕方が無い。
ここは滑走路の延長部分にあたり、着陸誘導等がずら〜っと並んでいます。ただし、滑走路そのものはかな〜り 遠く、もっぱらアプローチしてくる機体を見る場所です。
ここから見る夜間訓練時の着陸は圧巻でしたねぇ。
現在でもなんとか車を押し込める場所があるようで、ギャラリーもそこそこ居るようです。
ただ、ここは余程図太い神経の持ち主でないと長時間は居られません。
もうね、すごいんですよ、香ばしい匂いが…

「2008年12月30日 R/W03エンド」


と、まあこれでおおよそ外から飛行機を眺める場所は全てですか。
私がこの地に初めて訪れてから、すでに29年の歳月が流れた事になります。
10年一昔、なんて言葉もありますが、今では3年一昔といっても良いくらい、時代の変化は早くなっています。 そりゃあちょっと見ない間に変ってしまいますわな。人も物も。
思い出を懐かしむ「ノスタルジック」は確かに良いものですが、それには当然変化を納得しそれに順応してからの話。 そうでなければただの「後ろ向き」か「未練」ですしね。
とまあ、そんな辛辣な事はさておき、形は違ってもその記憶の風景を曲りなりにも再現されるのですからそこは 素直に喜んでも良いところでしょう。
という事で、そのノスタルジックに浸るための「聖域」もおおよそアタリが付けられたのは幸いでした。

郷愁ついでに
私の故郷も、その様相は大きく変貌していました。
かつては一面農耕地だった場所に、でで〜んと高速道路が走ってやがります。
もう、どうやっても昔ののどかな風景は還ってきませんが、これも時の流れのなせる業なのでしょう。

郷愁ついでにもう1つ。
高校時代、百里に足しげく通っていた時の足は単車でした。
という事で、かつての愛車(まだやんちゃになる前)も、フィルムスキャンついでに取り込んでみました。



さて、それでは今年は、尾白鷲でも見に行くか…







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