ジェット戦闘機ヒストリー

誕生から最新鋭戦闘機まで

その1




一説によると、西暦1785年に日本人の浮田幸吉が人類初の有翼飛行を行い、人が大空へはばたくという夢を曲りなりにも実現し、 その未知の可能性を切り開きました。
そして、その118年後の1903年にライト兄弟が初の動力飛行を行い、ほんの僅かではありますが大空を自由に飛ぶ 可能性を文字通り飛躍的に高める事になり、ここに歴史上初の“飛行機”が誕生しました。
その飛行機の誕生から100年以上が経過し、現在では未知で幻想的な夢物語のようだった乗り物はほぼ「当たり前」の 世界になっています。

とりわけその中でも、どこまでも高く、何よりも速く、上下左右意のままに大空を飛び回る事ができる夢の乗り物、それが「戦闘機」です。
その名が示すとおり、本来の目的は人類の最も忌むべき行為の為だけにありますが、現実としてそれが「夢」の具現化に際し 最も近道であり合理的であり、それ故に果てしない技術開発の結晶となり結実した、とも言えます。
「兵器」として歩んできた戦闘機の歴史は、その目的はともかくとしてエポックメイキングな技術革新、そしてその積み重ねでもあり、 それは途絶える事なく今もなお続いています。

そんな戦闘機も、1つの時代のうねりを超える中で、戦闘機の心臓ともいえる動力を レシプロからガス・タービンエンジンへと移し、より速く、より高く、よりパワフルに、そして高性能になり、運用目的は 別として古来よりの夢をより高次元で現実のものとしています。

ここでは、そのジェット戦闘機の歴史を紐解いて行きましょう。




ジェット戦闘機の誕生

 いわゆる「ジェットエンジン」と呼ばれるガス・タービンエンジンの歴史は意外に古く、その祖は産業革命の頃に遡ります。
蒸気機関からその概念が生まれ、それが実際に動力として実用されたのはそれから100年以上も後の1930年代になってから のことです。
 当時はまさにレシプロ、いわゆるピストンエンジンがその全てといってもよい時代であり、航空機もそれに倣った発展を してきましたが、そこには特に軍用機においてどうしても不都合な、あるいは避け切れない壁がありました。
その1つは燃料事情。
超高オクタン価のガソリンを使用する戦闘機用レシプロエンジンは、その調達1つとっても大変にコストがかかります。
もう1つはプロペラの弊害。
レシプロ機はその構造上、機軸の直線上に機銃の射線が取れません。それは戦闘機としての特性上、必ずと言っていいほど 機軸中心、そして機首部にエンジンとプロペラが必要だからです。
もちろん、戦闘機として運用する上で機銃が機軸と同調している事はメリットが大ですので、そのための機構は第一次大戦末期に はすでに開発されていました…たしか。
また、エンジン、プロペラを後部に設置したプッシャー型の戦闘機(震電:日本)や、双胴型の戦闘機(P−38ライトニング:米) なども(目的は別でしょうが)ありましたが、これらはスタンダートと成り得ずに終わっています。
そしてもう1つ、それは速度です。
物理的な問題で、レシプロ機はある一点の速度域でその速度は頭打ちになってしまいます。
プロペラが大きな抵抗になるのは当然ですが、何よりプロペラが臨界マック(マッハ)に達するとその能力が霧散、最悪破壊されて しまうからです。
もっとも、それでなくとも到底音速域には到達することはありませんが。

それを解消するための手段として開発がスタートしたガスタービンエンジンですが、当然その開発は困難を極めたようです。
ジェットエンジンの概念としては、いわゆるロケットエンジンもその1つとしてすでに実証され、また理屈も整ってはいましたが、 タービンによる流動的なエネルギー発生サイクル(吸入→圧縮→燃焼→排気→吸入〜)はなかなか実現できなかったと言います。

ジェットエンジンとは、その基本メカニズムとして取り込んだ空気を圧縮して高温にし、そこに燃料を噴射して爆発させ、その エネルギーで排気側にあるタービンブレードを廻し、そのタービンが空気を取り込むファンと同軸で繋がっているため同時に空気の 取り込み、圧縮を行い、同時に排気により推力を確保する、という、文字にするとなにやら面倒くさい感じがしますが、概念図に するとこうなります。



このメリットは、1つのエネルギーサイクルが断続ではなく連続で行われ、または発生することで、その分のエネルギー、あるいは その他のロスが軽減される、という事のようです。詳しくはわかりませんけど。
ただ、当時はその機構がなかなか成熟せず、苦肉の策として空気の取り入れ・圧縮をレシプロエンジンで行うという本末転倒的な手法を用いて いたようです。
ハイブリッドと言えば聞こえは良いですが、何のメリットもない意味のないハイブリットだったようです。
そうまでして拘るほどに、ジェットエンジンは未知ではありますが高い可能性を秘めていたと思われていたのです。
それが実を結んだのは1940年の頃の話です。
折しも、地球規模で戦火が広がり深まっていった時の事でした。

戦闘機として開発されたものの、その最初のジェット機は性能的に時のレシプロ第一線機に遠く及ばないシロモノでしたが、 当時最高の頭脳を 誇ったと言われるナチス・ドイツにおいて改良が進められ、実運用の目処が経つまでに至ります。
こうして、世界初の実用ジェット戦闘機「メッサーシュミット Me262」が誕生します。




第2次大戦での初陣

華々しく、とまでは行かなかったものの、悪化する戦局を一変するものと期待されたジェット戦闘機。
ドイツではMe262や、ハインケルHe162、またイギリスではグロスター・ミーティアと実戦に投入されて 行きましたが、期待されていたほどの戦力とはならず、戦闘機としては散々な結果となりました。
これは、当時すでに限界まで技術開発が突き詰められていたレシプロ戦闘機と、試作段階を抜け切れていないジェット戦闘機 とでは、いかに潜在能力が云々といっても競争できる相手ではなかったから致し方ないと言えるでしょう。

いかな技術力に優れていたドイツとはいえ、これらジェットエンジンの成熟には神速とは行きませんでした。
なにより、この頃には戦局の悪化、物資の不足、それに加え敗戦ムードが蔓延し始めた頃で、研究に時間をかける事も できない状態だったのです。
そんな状態ですから、ジェットエンジンよりも簡素で、且つ高い推進力を持つロケットエンジンやパルスジェットエンジンを 優先的に用い、これらがV1、V2ロケット、あるいはメッサーシュミットMe163コメートといった箕も蓋も無い破滅的な兵器と なっています。
また、同盟を結んでいた日本帝國でもこれらの技術は応用され、ロケット技術は「秋水」戦闘機に、ジェットエンジンは「橘花」 に転用されています。
しかし、その頃の日本はさらに状況は厳しく、結局ジェット戦闘機は実用には至らず、ロケット技術に至っては狂気の特攻兵器 「桜花」に利用されるという始末でした。

かたやイギリスにおいては、優勢となった欧米連合軍の中にあってその技術を練り、さらにほぼ敗戦間近となったドイツから ジェット機に関する資料を入手する事に成功したおかげでジェット戦闘機はその存在を確立することに成功しました。

それはアメリカ、ロシア、フランスなどの国々にももたらされ、一気にジェット戦闘機は世界に広がりだしたのです。
しかし、その頃には第2次大戦はすでに終わろうとしていたのでした。




終戦と実用化

 結果としてどこの国にも何一つ大義も得たものもなく、いたずらに人の命を消費するだけに終始した第2次大戦が終わり、 その中で兵器の近代化が加速的に進む事になったわけですが、とりわけ軍用機にそれが顕著に表れました。
 終戦後、欧米各国が敗戦国ドイツからふんだくった「ジェット機に関する資料」は瞬く間に各国に行き渡ることとなります。そして その頃からはじまった冷戦、戦争の教訓となった軍備増強などがはじまることになり、それぞれの国でジェット機開発が進められる こととなりました。
各国が手に入れた資料としては、ほとんど同じものであったと言われていますが、それぞれが独自の解釈、理論、目的で開発を 進めていく中で様々なジェット戦闘機が創られては消えていきました。

そんな中、実用ジェット戦闘機という面ではいち早くその域に到達したのはアメリカでした。
「P−80(F−80) シューティングスター」は、それまでのジェット戦闘機とは明らかに違うスタイルをしており、どこか洗練された 印象を持っていました。
同じ時期のMig−9(ロシア)やサーブ29ツナン(スウェーデン)、デハビランド・ヴァンパイア(英)などと比べると はるかに“戦闘機然”としています。
そして、P−80はその能力も汎用性も高かったといいます。また、特筆すべきはこの機体が突貫作業で開発されたにもかかわらず 成功となったのは、1人の男の類稀なるセンスによって設計開発、製造されたことです。
後の戦闘機に多大な影響を及ぼしたと言って良いその男については後述するとして、いわゆるジェット戦闘機の「第一世代」の決定版 となったのはこの機体であると言えます。

ちなみに

ジェット戦闘機の世代については、その区分け、層別は人それぞれで境界がはっきりしない事も多々ありますが、ここでは以下のように 区分していきます。

第1世代
いわゆる黎明期の戦闘機。第二次大戦末期からの直線翼全盛期の世代です。

第2世代
F−86、Mig−15に代表される後退翼を装備した戦闘機で、飛躍的に機動力が向上した世代を指します。

第3世代
いわゆる「超音速の幕開け」世代を指し、アメリカのセンチュリーシリーズ、ロシアのMig−19、21、フランスの ミラージュV、イギリスのライトニング、スウェーデンのドラケンなどです。

第4世代
全天候型を主眼として、ミサイル主体の攻撃能力を前提に誕生した世代で、F−4ファントムUやスホーイ15あたりの 、時期的に1970年代初頭あたりまでに開発された戦闘機を指します。

第5世代
マルチロールの走り、設計思想の変化などにより誕生した世代で、F−15、 Mig−29ファルクラム、ラファールなど時期的に1990年代までに誕生 した戦闘機を指します。

第6世代
いわゆるステルス技術定着や複合材の使用など、今現在製造、開発が行われている戦闘機たちで、 F−22ラプター、F−35ライトニングU、スホーイ35シリーズなどがあります。

なお、これらの区分は私の独断と偏見で便宜上分けたものであり、世界標準ではありません。念のため。




ミグ・ショック

 航空機、なかでも戦闘機の主流がジェット機に移り早くも実戦の時がやってきました。
いわゆる「朝鮮戦争」と呼ばれる、朝鮮半島を南北に分割しての、早い話が冷戦時東西陣営の代理戦争みたいなものです。
日本帝國の呪縛が解けた朝鮮半島を巡るこの一連の動乱については割愛しますが、ここで最初のジェット機同士の空中戦が繰り広げられる 事になりました。
 当時の最新鋭でもあるアメリカ空・海軍のジェット戦闘機による制空権確保、対地支援攻撃が行われましたが、これに応戦したのが 朝鮮民主主義人民共和国の軍勢です。
 連合軍となったアメリカを初めとする西側は、圧倒的な物量そして最新鋭の兵器を用いて早期の収束を目論見ましたが、これに待ったを かけたのが、ソ連(当時)の最新鋭のジェット戦闘機です。

 第一世代と言われるジェット戦闘機も、最新鋭とは言え所詮はまだ過渡期の、言ってみれば試作に毛の生えた程度の実用度しかありません でしたが、それはどの国でも同じ事でしたので、拮抗した能力であれば勝てると楽観していたのは事実でしょう。
どこが?とは言いませんが。
 しかし、そこに充分な開発期間と持てるデータを優れた視点で解析した結果に誕生した次世代を担う戦闘機が出現した事により、 戦局は膠着状態に近い状態となります。

 その次世代を担う戦闘機こそが「Mig−15」でした。
朝鮮は、ソ連、そして中華人民共和国義勇軍の後ろ盾をうけ、最新鋭の戦闘機と充分な物資を得ていたのです。
 後退翼、そして高出力のジェットエンジンを持ち機動力(空戦能力)に勝るMig−15の出現により、 直線翼主体の(主に)アメリカ軍ジェット戦闘機は太刀打ちできなくなりました。それによって制空権も確保にしくくなっていきます。
 これが俗に言う「ミグ・ショック」と言われるもので、それほどまでにMig−15の出現は衝撃的でした。

 しかし、アメリカにおいても既に後退翼の研究は行われており、実用化の時期が一足遅かっただけの事で、ショックの反面後退翼の 有用性を確信する事もできました。
 そこで投入されたのが「F−86セイバー」で、これによって戦闘機は第2世代へと移行する事になります。

 Mig−15とF−86との空中戦は、結果としてF−86の圧倒的な勝利に終わりました。ただ、機体の能力だけを比較すると Mig−15に軍配が上がり、特に上昇性能、高高度での戦闘機動などではF−86は分が悪かったようです。
 しかし、出現当初はソ連の熟練パイロットによる戦闘で圧倒的な差を持っていたMig−15ですが、これが中国義勇軍に移ると 力量の差は逆転し、かつ戦法の解析なども進み立場が逆転、驚くべきキル・レシオを記録する事になるのです。

 ミグ・ショックは、ジェット戦闘機の「あるべき姿」を浮き彫りにする出来事でもありましたし、ジェット戦闘機が 戦闘機として進化するための1つのステップでもあったと思います。




音の壁・超音速時代

 「チャック・イエーガー」
この名前が歴史に刻まれる事になった理由は、言わずもがな「人類史上初めて音速を突破し生還した男」だからです。
厳密に言うと、彼がその偉業を達成する前にも、現用機のダイブ(急降下)による音速域(亜音速)突入、突破は実現 されていたりしましたが、水平飛行で、かつ公式な記録となると、ベルX−1実験機にてイエーガーが記録したものが 人類初、となったわけです。
 音速飛行がなぜこれほどまでに難関であったのかは、いろいろな文献に紹介されていたりしますので詳細は割愛します が、簡潔に言えば「空気の流れがある一点で劇的に変化する」からです。
 その中のひとつに「衝撃波の発生」があり、プロペラ機の対気速度に限界があるのは、プロペラが臨界マックを迎えると 衝撃波が発生してしまうからです。
 ちなみに、見たことはありませんがこの衝撃波は目に見えるそうで、機上でこれを見たことのある人によれば「美しい」とか。 まあ、余程の事が無い限り、私達一般人が目にする事はないと思いますが。コンコルドももう無いし。
 さて、イエーガーが乗った「ベルX−1」という実験機は、ジェットエンジンではなく、ロケットエンジンを装備した直線翼の 実験機です。
 エンジンは別として、直線翼、均一な流線型の胴体というX−1が音速を突破し、それ以上の速度域へ挑むというのは現在から みれば自殺行為以外の何物でもありません。事実、イエーガーの偉業達成前にはこの実験により数名の命が散っています。
 当時考えられていた理論として、強力な推進力さえあれば音速は可能とされていました。このあたり、未知の世界でもあり 実証する事もできず、かといって物理的な解析もできないことからそう思われていたのは仕方の無いことでした。
 後述する「エリア・ルール」という概念も、じつはこのイエーガーの偉業なくしては発見時期がかなり遅れていたとも言われています。
 この実験を皮切りにして、時代は「音速突破」から「超音速」へと移ります。
実験機の世界ではもはや音速域は現実的な速度域でもありましたが、実用と言う面ではまだまだでした。
同じような研究、実験は様々な(と言っても限られてはいますが)国でおこなわれ、実証もされだしていました。
そんな中、世界で最初の実用超音速戦闘機が誕生します。
それが「F−100スーパーセイバー」と「Mig−19ファーマー」です。
なぜ世界初が2つもあるのかというと、開発、ロールアウト時期が前後するもののほぼ同じ、それらの着手、開発が全く別の、接点の 無い所で行われていた、との理由からで、通説では一足速いF−100が「世界初」と位置付けられています。

大きな後退角のついた後退翼の採用、強力なジェットエンジン、流体力学に基づいた機体設計などが織り込まれ、 これによって時代は「超音速」を迎えるのでした。

 音速飛行が当たり前の時代となり、それは戦闘機のみならず大海を隔てた大陸への侵攻を目的とした「戦略爆撃機」にも、 超音速が求められました。
 そうなると、今度は高高度を超音速で飛来する戦略爆撃機を迎撃する戦闘機の必要性が持ち上がることなるのは必然で、 自然に最大速度の要求は役二倍ほどに引き上げられました。しかし、当時の技術ではなぜか速度M1.2あたりで頭打ち となり、それ以上のマックナンバーを出すのは困難だったと言います。
 これは主翼形状やエンジンパワーの問題ではなく単純に抵抗の問題であったのですが、その抵抗が何による物なのかが 不明だったようです。
 そうした要求性能を狙って開発された、アメリカの「コンベア F−102デルタダガー」は、当初その問題により 要求された速度性能が発揮できず、開発陣を悩ませたと言います。
 設計上、あるいは計算上はこれで当初要求された速度が出せるはずだとコンベアの開発者は確信していたそうですが、 要求速度どころか音速突破すら出来ませんでした。
 その問題解決で足踏みしていたところ、NACA(現在のアメリカ航空宇宙局「NASA」の前身)の研究データを 入手します。それによると、機体の断面を機首部から追っていくと、主翼と胴体の接合部で1番大きな面積となり、これが 問題の抵抗の原因と判明します。
 その解決策として、断面積を押さえるという概念、すなわち「エリア・ルール」が用いられる事になりました。これは 簡潔に言って主翼と胴体の接合部分で、胴体を細くすることで断面積を低くし、空気抵抗を抑えるというものでした。
 これによってF−102は当初要求された速度性能を、いとも簡単に発揮したと言われています。ところがどっこい、この エリア・ルールは、F−102よりも少し早く実戦配備されたアメリカ海軍の艦上戦闘機、「グラマン F−11タイガー」 でちゃっかり実用されていました。もっとも、F−11ではF−102ほどの速度性能は要求されていなかったようですし、 早々と第一線から退いている事もあって、エリア・ルールを語られる時に真っ先に上げられるのはF−102のほうばかり だったりします。

 こうして超音速の幅が広くなり、戦闘機の最大速度域はついにM2クラスが台頭してきます。
その代表格といえるのが「ロッキード F−104 スターファイター」で、速度性能を最大限に引き出すために、極限まで シェイプされた外観は、まさに当時のキャッチコピー『最後の有人戦闘機』を納得させるに充分でした。
 そして、この超音速時代の幕開けが、戦闘機が戦闘機としての存在意義を薄れさせていく事になってしまいます。




〜その2 へ続く〜


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