MICHAEL SCHENKER STORY


孤高の天才ギタリスト マイケル・シェンカー





過去、数多のギターヒーローの中で、彼ほどドラマティックな人生を送っているギタリストはそういないのではないでしょうか。
彼の名は「マイケル・シェンカー」。
類稀なる才能を持って生まれ、その才能ゆえに苦しみ続けた孤高の天才ギタリスト。
「神」とも称される彼はギターヒーローとして君臨しながらも、時に思わぬトラブルに何度も翻弄され苦しみ続けてきました。
そんな時の精神状態をまるで鑑のようにメロディーに反映させ、そのメロディーは聴く者の心を魅了して止みません。
それは、ファンのみならず、現在プロとして活躍するミュージシャンの中にも彼のフリークが多く存在する事からもうかがえます。

ギターを弾く事にのみ持てる力を全て注ぎ込み、独自の美学を追求する職人気質的な面が幸いしたのか、メンバーとの衝突やマネジメント とのトラブルにより、ギタープレイ意外では不遇な境遇に常に翻弄されて、その度に失踪したり沈黙したりと私たちの前から姿を消し、 そして復活の度に強力なメロディを奏でるという事を繰り返してきました。
そんなマイケル・シェンカーのドラマティックな経歴をみて行きましょう。




マイケル・シェンカー、音楽との出会い



ドイツはハノーバーで生まれたマイケルがギターを弾き始めたのは9歳の頃でした。
ギターに目覚めるまでは、プロのサッカー選手になりたくて毎日サッカーに明け暮れていたそうです。

ギターを弾き始めた直接のきっかけは、彼の兄である“ルドルフ・シェンカー”(SCORPIONS)の存在です。
バンドを結成しギターを弾く兄を見ているうちに自然とギターに親しんでいったといいます。
それに加えマイケルには音楽家としての下地がありました。彼だけでなく、兄、そして妹の“バーバラ・シェンカー” (VIVAのキーボーディスト)もプロのミュージシャンとして成功しているのは、彼の家系にその要因があるようです。

いつしかサッカーボールと戯れるよりもギターを弾く時間の方が多くなり、 “ビートルズ”“マウンテン”“クリーム”など 当時流行していた曲やルドルフがよく聞いていた曲をコピーするようになり、早くも完全にマスターしその才能の片鱗を覗かせていたそうです。


そして11歳の時に彼は初めてバンド活動をする事になりました。
“THE ENERVATES(イノヴェイツ)”というそのバンドは、“ビートルズ”や“クリーム”などの コピーバンドでしたが、マイケルのギターテクニックは11歳とは思えない位原曲に忠実で、オリジナルと遜色が無かったといいます。

やがてイノヴェイツを解散しその後“CRY(クライ)”を結成、地元ハノーバーで一躍有名になりました。
CRYはよりロック色を強くし“レッド・ツェッペリン”“ディープ・パープル”などのコピーを中心にプレイしていました。
その頃、兄のルドルフは 自身のバンド“スコーピオンズ”でクラブ廻りをしてギャラを稼いでいた事もあり、 マイケルはバンドで生計を立てていく事を意識し始めたといいます。
つまりはプロのギタリストになろうと決意するに至ったわけで、もはやサッカー選手の事はこの時点であきらめたという。

凄腕の10代の少年ギタリストという事でCRYは有名になりました。が、その後解散、そして “クラウス・マイネ”(現SCORPIONS)らと“COPERNICUS”というバンドを結成し、プロを視野に入れて 活動を続ける事になります。






プロギタリスト、マイケル・シェンカーデビュー



やがて順調にキャリアを伸ばしていたSCORPIONSに1つの問題が発生します。
もう1人のギタリストが薬物所持で逮捕されてしまいました。
すでにかなりのステージをこなしており、殆どセミプロとしての活動をしていたスコーピオンズは窮地に立ちました。そこで ルドルフはマイケルを誘い、マイケルはスコーピオンズに加入する事になります。
当然コペルニクスは活動を続けられなくなり、 クラウスも後にスコーピオンズに加入することとなってスコーピオンズは現在に至るメンバー構成がほぼ固まった事となりました。
もちろん、リード・ギタリストは除いて、ですが。

すでに地元ではかなり有名なバンドとして成長していたスコーピオンズですが、プロデビューのチャンスが早くも巡ってきました。
メトロノーム・レーベルという会社にプロデビューの話を持ちかけられたスコーピオンズの面々は、すぐさまその話に乗り、契約書に サインしました。そして、7日間という信じられない程短く厳しい期間でアルバムのレコーディングを敢行し、デビューアルバムを 完成させました。


「LONESOME CROW」


と題されたこのアルバムが、スコーピオンズ、そしてマイケル・シェンカーのプロとしての デビュー作となりました。この時マイケル15歳、これが永く険しい孤高のギター・ヒーローとしての第一歩でした。




ここでどうしても触れなければならないのが、彼の分身ともいえる「フライングV」について。

スコーピオンズ加入の頃、マイケルはまだ「ホーナー」というメーカーのギターを使っていました。
このメーカーはビートルズのポール・マッカートニーが使用していた ベースギターのメーカーで知られていましたが、マイケルが使っていたのは安価なものでした。

プロとして活動していく上でこのギターでは無理があると考えたルドルフは、マイケルと共にギター購入に出かけることになり、そのときにマイケルはギブソンのレス・ポールを購入しました。
一方、ルドルフはかねてから欲しかったフライングV(メダリオンという限定品)を全財産を叩いて購入しました。
ルドルフがフライングVを欲しがった背景には、ジョニー・ウィンターがフライングVを弾いていたのを観て憧れたらしいです。その影響かどうかは不明ですがルドルフがかなりのフライングVコレクター である事は有名です。

マイケルがレス・ポール、ルドルフがフライングVという構成でライブを行っていましたが、ある事件がおきました。
ある日、マイケルがガールフレンドの部屋にギターを置いたままにし、持ち出せない状況に陥ってしまい急遽ルドルフからフライングVを借り受けることになりました。
そのときのVの感触がいたく気に入り、以降執拗にルドルフにVをねだったそうです。
根負けしたルドルフがマイケルにVを渡し、ステージ上にVが2本もあるのは強烈過ぎると思ったルドルフはマイケルのレス・ポールを使う事になりました。
フライングVを得たマイケルはまさに水を得た魚の如くフライングVを自在に扱うようになり、以降マイケルはフライングVのみを使うようになりました。
元々、マイケルはギターのメーカーや形状に関しては無頓着でこだわりはなかったようで、サウンドこそが第一と考えている節があったようですが (MSGの「Built To Destroy」 ではストラトを使っていたし)、フライングVに関しては もはやこだわりというよりも体の一部のような存在になっているのでしょう。
その証拠に、サウンドが気に入らなければギターそのものを変えるのではなく、ピックアップやアンプなどのイクイップメントで サウンドメイクを繰り返していました。
かくして、アルバート・キング、ジェローム・ガイルズ、アンディ・パウエルらに取って代わって、シェンカー兄弟が世界的ミスター・フライングVとして君臨する事になりました。




UFOとの出会い



「LONESOME CROW」がドイツ国内で高い評価を受けて、スコーピオンズも積極的にツアーを行っていました。時には 海外からの大物バンドのサポートも勤めるなど一気にその名を広めていく事になります。

そんなバンドの中に、“UFO”というイギリスから渡ってきたバンドがありました。“エディ・コクラン”のカヴァー曲「カモン・エヴリバディー」 がドイツと日本で大ヒットした事もあり、UFOは積極的に海外へのツアーを行っていました。
というよりも、母国イギリスではそれほど売れずかなり冷遇されており、必然的に活動の場は外国になっていたというのが実状でした。しかしこの時期には その唯一のヒットチューンを引っさげて来日も果たしており、その模様はライブアルバムとしてリリースもされています(現在は廃盤)。

そのUFOのオープニングアクトを勤めていた時、ある事件が勃発します。
当時UFOのギタリストであった“ミック・ボルトン”がライブ直前に失踪してしまいました。
UFOはライブをキャンセルしようとしましたが、プロモーターからの強い要請もあってライブを行うことになりましたが、ギタリストがいない為に その時前座を務めたスコーピオンズからマイケルを借り受ける事になりました。
以前から何度かUFOのサポートをしていた事もあり、マイケルもUFOの曲は知っているとの事で僅かの音合せの後にマイケルは臨時にUFO のギタリストとしてそのステージをそつなくこなしたといいます。
この時の感触が、UFOのリーダーでボーカリストの“フィル・モグ”の琴線に触れたのか、これ以降マイケルに対してUFOへの加入を何度も要請します。
当のマイケル自身は、スコーピオンズを辞めてまでUFOに加入する理由もなかったために断りつづけていました。また、同じ頃にマイケルは あの“THE ROLLING STONES”にも、急死した“ブライアン・ジョーンズ” の後釜にと誘われていましたが、こちらはルドルフの反対によりやはり断っていました。
しかし、度重なるフィルの誘いにマイケルは次第にその誘いに乗る方向に傾き、ルドルフと相談した結果ついにUFOへの加入を決意する事に なります。
そして、スコーピオンズのリードギターの座を知り合いの“ウルリッヒ・ロート”へと托し過酷な運命が待つイギリスへと渡ることになりました。






新生UFOとマイケルとの確執



マイケルを迎え入れたUFOは、それまで契約していたマイナーレーベルのビーコン・レコードから大手レーベルのクリサリス・レコードへと移籍し、心機一転 ニューアルバムの制作に入りました。そしてUFOとしては通算4枚目、マイケル加入後では初となる

「PHENOMENON」

をリリースします。
これまでは良くも悪くも古き良き時代のブリティッシュ・ハードロック、言い換えればどこか垢抜けない印象だったUFOのサウンドは、この アルバムによって全く違うものへと変わりました。
良い意味でマイケルの加入はメンバーにとって刺激になったのと、マイケルの卓越したソングライティングセンスのお陰で大変身したと言っても 過言ではないでしょう。事実、このアルバムのナンバーのその殆どがマイケルによるものでした。
中でも「DOCTOR DOCTOR」や「ROCK BOTTOM」などは後のUFOの音楽性を決定付けたと言えますし、それに留まらず、 ブリティッシュ・ハードロックシーンそのものを変化させたと言える名曲です。
それは現在のブリティッシュ・ハードロックシーンを支えている“アイアン・メイデン”“デフ・レパード”の面々がUFOフリーク である事を公言している事実からも窺い知れます。

しかし、そんな前途の明るいUFOにあってマイケルだけはやや事情が異なっていました。

ドイツ人である彼は英語が満足に話せないこともあって、バンド内で次第に孤立するようになりました。スタジオで談笑するメンバーとは 離れて一人孤独にギターを弾いている姿が目立っていたなど、マイケルにとってUFOは決して居心地のよい場所ではありませんでした。
理想とは違ったそんな状況に次第に精神的に追い込まれていくようになります。

そんなマイケルに追い討ちをかけるように、フィル・モグはUFOをツイン・リードギターバンドにしようとします。これはすでにこの時期 にアメリカンマーケットを視野に入れており、サウンドの幅を広くしようとしたフィルの考えからでした。
当時“SKID LOW”で活躍していた“ポール・チャップマン”を引き入れ、マイケルとともにステージに上げるようになりました。 この事態にマイケルは猛反発し、バンド内での孤立などのストレスからアルコールやドラッグに精神的に依存するようになり、ついには 失踪する事態となりました。
結局、事態の収拾を図ったフィルにより、ポール・チャップマンは首を切られ、マイケルは復帰する事になります。

そしてマイケルを迎えてからの第2作目のアルバム

「FORCE IT」

がリリースされました。
コンセプト的には前作の延長線上にあると言えるこの作品では、キーボードの導入によりやや音域が広がりマイケルのギターも前作 以上に全面に押し出されています。このアルバムを引っさげての全米ツアーも大成功とは言えないまでも無事に終える事になりました。


このツアーには、やはりアメリカン・マーケットを視野に入れていた為か、キーボード奏者に元“HEAVYMETAL KIDS”の “ダニー・ペイロネル”を迎え入れて廻っていました。
そのダニーを加えたメンバー構成でのアルバム作成が開始され、新生UFOとしての第3作目

「NO HEAVY PETTING」

が完成しました。
このアルバムではアメリカン・マーケットを強く意識していたためか、マイケルよりもダニーのストレートなロックンロール調の 作品が殆どを占めていました。
このアルバム作成の段階で、やはりマイケルにしてみればダニーの創る曲はどうにも我慢できなかった(要するに自分のスタイルに 合わない曲調だったらしい)ようで、次第にダニーの存在が新たなプレッシャーとなっていきました。
そのような状況下で、前にも増してアルコールやドラッグへと依存するようになってしまったマイケルは、再び失踪事件を起こしてしまいました。
結局、マイケルの意見を尊重したフィルによりアルバムリリース後にダニーは首を切られ、替わりに“SVOY BROWN”にいた“ポール・レイモンド”が加入しました。 ポール・レイモンドはキーボードとサイドギターの両方を受け持ち、曲のアンサンブルとしてのサイドマンという立場でしたが、それ はマイケルが求めていた理想的なサイドマンであり、結果的にはポールの加入がマイケルを安定させる要因ともなりました。

そして、フィル・モグ、ピート・ウェイアンディ・パーカー、ポール・レイモンド、マイケルという、後に「黄金期メンバー」と 称されるメンバーでのレコーディングが始まりました。
プロデューサーに若きアメリカ人の“ロン・ネヴィソン”を迎えた第4弾アルバム

「LIGHTS OUT」

が完成しリリースされました。このアルバムが全米で大ヒットした事により、UFOは再度全米ツアーを敢行する事になります。
しかし、もともと心身ともに限界にあった上にレコーディングでさらに神経をすり減らしていたマイケルにとって、ツアーは苦痛以外の 何物でもなく、またしても全米ツアーの前に失踪してしまいます。
慌てたUFOのメンバーはギタリスト探しに奔走し、結局ポール・チャップマンを代役として全米ツアーを乗り切ることとなりました。

やがてマイケルも復帰し、「LIGHTS OUT」に続くアルバム

「OBSESSION」

のレコーディングを開始しました。
このアルバムもアメリカで好評を博し、再び全米ツアーへと向かう事になります。

この頃になると、マイケルはバンド内でのストレスと過酷なスケジュールのツアーによるアルコールとドラッグの過剰摂取により、 もはや正常とは程遠い状態になっていました。
しかし、なんとかこのツアーを乗り切り、その模様はライブアルバム

「STRANGERS IN THE NIGHT」

としてリリースされています。

しかし、続くワールドツアー(日本も含まれていた)を前に、ついにマイケルはUFOを脱退します。
マイケルはUFOを去り、故郷のハノーヴァーへ帰り、安静な日々を送ることとなりました。




言葉が通じない事による精神的な苦痛、自分以外のギタリストや反りの合わないメンバーの加入、そしてUFOで絶対的な権力を持ち、酒豪で 時に暴力的な面を見せるフィルとの確執などで、ギターを弾く以外は常にアルコールやドラッグに依存するしかなかったマイケルは、身体、精神ともに ボロボロになるのは必然でした。
UFOを脱退したことにより、マイケルは音楽から離れてしまうと誰もが思った事でした。

マイケルの抜けたUFOは後任に再びポール・チャップマンを迎えて活動を続ける事になりますが、その後マイケル在籍時の黄金期以上の成功を 納めることはありませんでした。



ルドルフの救いの手



故郷に帰ってからしばらくして、マイケルがUFOを脱退した事を知ったルドルフは、かつて マイケルと入れ替わりに加入したスコーピオンズのギタリスト、ウルリッヒ・ジョン・ ロートが抜けた事もあってマイケルにスコーピオンズへの復帰を打診しました。
マイケルはこれに呼応し、スコーピオンズに加入したばかりの新人ギタリスト“マティアス・ヤプス”のヘルプと言う形で加入する事になります。
マイケルを迎えて作成されたアルバム

「LOVE DRIVE」

では、メインはマティアスがリードを取っていますが、マイケルは3曲でリードソロを弾いています。
そしてスコーピオンズはツアーに出る事になりますが、過酷なツアーに疲れきっていたマイケルにとってUFO、スコーピオンズの違いは あっても、それが肉体的にも精神的にも苦痛である事に変わりはなく、ツアー途中でスコーピオンズを脱退することになってしまいました。

結局、一枚のアルバムに参加したのみでマティアスにその座を明け渡し、スコーピオンズから姿を消しました。






新たなる試練、MSG



これまで散々な目にあって来たマイケルは、結局のところ全てを自分でコントロールできる状態がベストであると判断し、 ソロプロジェクトに乗り出しました。
プロジェクトに先立ち、マイケルは兄ルドルフを始めとするスコーピオンズの面々にデモテープを聴いてもらい、好感触を得た事で前向きに 進める意欲が湧いてきたそうです。
そしてルドルフからメジャーレーベルのマネージャー、“ピーター・メンチ”を紹介してもらい、着々と準備を進めていきます。
やがてリハーサルが開始され、アメリカから来た“ビリー・シーン”などのミュージシャンとセッションを行う事となりました。

ところが。

アルコールと精神安定剤の服用による後遺症からか激しく錯乱した状態となり、幻覚に悩まされたり、自慢のブロンドの髪をナイフで切り 刻んだり、自分の部屋をめちゃくちゃにして暴れたりと手の付けられない状態になり入院する事になってしまいました。
当然、ビリーやその他のセッションメンバーもそれを待ち続けることは出来ないためメンバー構成は白紙になってしまいました。

やがてリハビリを終えてクリーンになったマイケルはプロジェクトを再開しました。
アルバム作成に先立ち、レコーディングのメンバーが決定し、“サイモン・フィリップス”(ドラムス)、“モ・フォスター”(ベース)、 “ドン・エイリー”(キーボード、元レインボー)、 そしてボーカルに当時無名だった“ゲイリー・バーデン”を起用し、プロデューサーに“ロジャー・グローバー”を迎えレコーディングに取り掛かりました。
心身共にリフレッシュしたマイケルのソロプロジェクトアルバム

「THE MICHAEL SCHENKER GROUP」

はこうして完成し、リリースする事になりました。

当初はツアーを拒んでいたマイケルでしたが、ピーター・メンチの説得によりツアーをする事になりましたが、 それに先立ってその為のメンバーを探すことから始めなければいけませんでした。
ボーカルはそのままゲイリーで決まり、キーボード/サイドギターはUFOを脱退したばかりのポール・レイモンド、ベースはオーディション で決まった“クリス・グレン”、ドラムには、この時期ゲイリー・ムーアとのプロジェクトが暗礁に乗ってしまった“コージー・パウエル”に決まり ました。


リハーサルを経て全英ツアーを開始したMSGは、UFO時代からのファンも多かったために大成功のうちに終わり、続く全米ツアーも 大成功となりました。
そのツアーを終えたMSGはそのままセカンド・アルバムのレコーディングにはいりました。
UFOでも定評があったプロデューサー、ロン・ネヴィソンを迎えて作成された

「MSG」(邦題「神話」)

は、ロンの手腕もさることながらバンド全体が高い次元で纏まっている事を証明し、マイケルのギターもUFO時代と比較しても遜色ない ばかりか、さらに磨きがかかっている様子を窺わせました。
そしてこのラインナップで1981年にはファン待望の初来日を果たし、この時の模様は後に

「ONE NIGHT AT BUDOKAN」

と銘打ったライブ・アルバムとしてリリースされています。
日本ツアーを終えたバンドはそのまま再び全英ツアーを行いますが、このツアーでバンドに異変が起こります。

アルバムプロデュースにアメリカ人のロンを起用した事で、ドラムサウンドに重みが無くなったとしてドラムのコージーは納得がいかず、 さらにヴォーカルであるゲイリーの実力不足などで苛立ちが頂点に達し、ついにはマイケルと激しく衝突しライブが中止になる 事態にまでなってしまいました。


これと前後して、マネージャーのピーター・メンチはキャリアの浅いゲイリーと、理由は定かではありませんがポールの2人をクビに してしまいます。
そしてコージーの発案によりコージーとかかわりの深かったヴォーカリストの“デヴィッド・カヴァーデール”を引き入れようとしました。
諸般の事情でデヴィッドのMSG加入は出来ませんでしたが、代わりに“RAINBOW”時代のコージーの友人でもある “グラハム・ボネット”を加入させる事が出来ました。しかし、ここで思わぬ急展開となります。

今度はデヴィッドがコージーを引き抜きにかかり、これまでの事情もあってコージーはあっさりとMSGを去ることになってしまいました。
代わって急遽、以前クリスと同じバンドでプレイしていた“テッド・マッケンナ”をドラムスに迎え入れレコーディングを開始するわけですが、今度はコージーの いないMSGに違和感を持っていたグラハム・ボネットが脱退してしまいます。
この脱退劇はアルバム「ASSAULT ATTACK」のライナーノーツに詳しく書かれていますが、結果として マネジメント側の策略は失敗に終ったわけです。
グラハムが抜けた数日後には、ゲイリーがカムバックして「レディング・フェスティバル」でステージを披露し、ファンを 驚かせました。


結局、時間が無い事もあり新アルバム

「ASSAULT ATTACK」

はグラハム・ボネットがボーカルのままリリースされる事になりました。

ゲイリーを再び引き入れ、ポールの抜けた穴は“アンディ・ナイ”を起用することでメンバーを確保し、幾度かのヨーロッパツアーと 2度目の来日公演の後、次のアルバムレコーディングに取り掛かります。
ピーター・メンチとの契約も切れた事で、自分たちでプロデュースすることになったアルバムは

「BUILT TO DESTROY」

と名づけられ、レコーディングスタジオのハウスエンジニアである“ルイス・オースチン”との共同プロデュースというかたちで、日本と イギリスで先行発売されました。
しかし、ここに来てマネジメントの重要性を痛感したマイケルはCCCマネジメントと接触します。
契約の話のなかでレーベル側は、すでに発売されていた「BUILT〜」のリミックスとサイドギタリストの加入を 条件に契約を結ぶ事を提示しました。
マネジメント側は、実力に疑問符が付くゲイリーをサポートする形で、サイドギターとサイド(時にはメイン)ボーカルもこなす “デレク・セント・ホルムズ”を引き入れ、数曲をデレクのヴォーカル・テイクとすることでアルバムのパワーアップ、要するに 売れるレベルにしようとしました。
マイケルはこれに同意し、アルバムをリミックスして同レーベルより再リリース される事となり、ここに異例の「二種類の同一アルバムが市場に出回る」という事態になりました。
このメンバーでのツアーはビデオに納められ、またライブアルバムのテイクにも収録されて後に

「ROCK WILL NEVER DIE」

と題されて、アルバムとビデオがリリースされています(ビデオはすでに廃盤で入手不可、貴重なコレクターアイテム!)。

活動を続けるうちに、やはりバンド内ではマネジメントの問題やメンバー間の衝突などで人がめまぐるしく変わり、 ゲイリー・バーデンが(マイケルが投げたナチョスが元で)脱退し、次いでクリスが脱退してしまいます。
そして1984年、日本で行われた「スーパーロック・フェスティバル’84」では、急遽調達した全く畑違いのジャンルのボーカリスト“レイ・ケネディー” を迎え入れて出演しましたが、レイは歌唱力云々以前に歌詞を満足に覚えられず、歌詞を書いたメモを見たりステージ床に歌詞カードを貼り付けて、それを 見ながら歌ったり、さらには歌詞を忘れたところをハミングでごまかしたりという醜態をさらす始末でした。
もはやマイケルはおろかマネジメント側でもコントロールできないまでにMSGはまとまりを無くしてしまい、ついにはMSGは空中分解することになってしまいます。
そして、マイケルは音楽シーンから姿を消す事になります。




新たなるパートナーシップ
McCAULEY SCHENKER GROUP



数々のマネジメントによる干渉などで神経を消耗し、音楽シーンから遠ざかっていたマイケルは突如復活しました。
新メンバーを迎えてMSGを復活させましたが、それは新たなパートナーとの絆の深さを示すバンド名でもありました。

ヴォーカリストに“ロビン・マッコーリー”を迎え入れ、バンド名を「マッコーリー・シェンカー・グループ」とし、 他のメンバーもベースに“ロッキー・ニュートン”、ドラムに“ボードー・ショホフ”、 サイドギターとキーボードに“スティーブ・マン” と一新されました。

サウンドに対するアプローチもどこか新鮮味を帯び、よく言えばアメリカナイズされたロビンに触発されてかポップよりなアレンジが目立ちますが、 しかしマイケルのギターもどこか以前のような緊張感を漂わせています。
アルバム製作の段階で、キーボード/サイドギターのスティーブが家庭の事情で脱退してしまい、代わりに元「TALAS」でビリーと壮絶な 速弾きバトルを繰り広げていた“ミッチ・ペリー”が加入します。
このメンバーでのMSGの方向性がはっきりと打ち出された中で制作されたアルバム

「PARFECT TIMING」

は、まさにそのタイトルどおり、これ以上ないタイミングでのリリースになりました。
前作から3年、その空白を埋めてなお有り余る圧倒的な存在感は、この新生MSGが以前のMSGのような傀儡的な存在でないことの証 と言えるものでした。
しかし、スティーブに代わって加入したミッチが他のメンバーとの確執を生み、バンド内で波風が立ち始めました。
結局、他のメンバーともしっくり行かないミッチが脱退し、スティーブが復帰して元の鞘に収まりました。
そして作製されたMSGとしての第2弾アルバム

「SAVE YOURSELF」

がリリースされます。
この時期は丁度速弾きが注目されていた時期でもあり、マイケル自身も速弾きの先駆者とも言える“イングヴェイ・マルムスティーン”と交流があったこと から今まで以上に緊張感溢れ、尚且つトリルを効果的に使った速弾きを聴かせるなど、マイケルのスタイルも何処かリフレッシュ した雰囲気が感じられます。
しかし、数度のツアーをこなしたもののこのメンバーでのこれ以上の活動はあまりなく、アルバムのセールスも振るわなかった 事もありバンドの活動事態が消極的になってしまいます。
バンドとしての目だった活動がない事で、他のメンバーはそれぞれに他のプロジェクトへ参加したりして事実上MSGは活動停止状態となり ました。


その頃、同じレフトバンク・マネージメントに契約していた“RATT”から、MTVのアンプラグドに出演を予定していたが ギタリストの1人、“ロビン・クロスビー”が体調不良で出演できない為に、友人であるもう1人のギタリスト“ウォーレン・デ・マルティーニ” から直接代役のオファーが飛び込んできました。
このセッション時に一緒に出演していた“VIXEN”“シェア・ペダーセン”の一言が契機となり、同じレフトバンク・マネージメントに所属するバンドからそれぞれが集まってアルバムを作るという プロジェクトが立ち上がり、「コントラ・バンド」としてスタートしました。
コントラバンド自体はアルバムをリリースしたものの、メンバー間のスケジュールの都合が付かずツアーなどは行いませんでした。

このプロジェクトでリフレッシュしたマイケルは再びロビンとニューアルバムの作成に取り掛かることになりました。
しかし、前作から約3年間、バンドとしての活動が無かったためにメンバーの都合がつかず、マイケルとロビン以外はスタジオ・ミュージシャン を起用してレコーディングされました。ドラムに“ジェイムス・コタック”、ベースに“ジェフ・ピルソン”といったメンバーで 作成されたMSG名義の第3弾アルバム

「MSG」

がリリースされました。
これまでのアメリカのマーケットを強く意識した内容に加え、アコースティックを取り入れるなどの新しい面を覗かせる出色の アルバムとなりました。
この時期にはまさにMTVに端を発する「アンプラグド」が大流行し、MSGとしてももはや共に活動できるメンバーはマイケルと ロビンの2人のみ、という事もあり、マイケルは次第に「アンプラグド」主体へとシフトしていきました。
これまでのMSGの中から数曲を「アコースティック」にアレンジしたアルバム

「アコースティック・MSG」

は、こうした経緯からリリースされたもので、これによりマイケルとロビンは、サポートに“シャーク・アイランド”“スペンサー・サーコム” を迎えてアンプラグド・ツアーに踏み切りました。
アンプラグドでの活動も一段落した1992年、2代目MSGは活動休止状態のまま解散する事になってしまいました。




「奇跡」と「神」の迷走と



MSGとしての活動が無くなったマイケルは、スコーピオンズのツアーにゲスト参加したり自主制作したアコースティックの インストゥルメント・アルバム「THANK YOU」を自身のレーベルから通販のみで販売するなど、あまり表立った活動は しませんでした。


ところが


1993年に奇蹟が起きました。

もはや二度と復活しないであろうと思われたあの「STRANGERS IN THE NIGHT」時のメンバー、 マイケル、フィル、ピート、アンディ、ポールというラインナップでUFOは再結成される事になりました。
この再結成までには紆余曲折があり、当初はUFO側とマイケルとの折り合いが付かずに話が立ち消える寸前までいったそうで すが、結局はマイケル側が参加を承諾して実現したそうです。
このメンバーで来日公演も果たし、1979年に涙を飲んだファンは、奇跡が実現した事で今度は歓喜の涙を流したといいます。
そして、ニューアルバムのレコーディングに入り、1995年にリリースされました。

「WALK ON WATER」

と題されたアルバムは、まさに「奇跡は起こりえる」事を意味したナイスでタイムリーなネーミングでした。
アルバムそれ自体は、昔のUFOとはやや趣きが違っておりファンとしては賛否が別れるところですが、それはいい意味でそれぞれ のメンバーの成長を示すアルバムといえるでしょう。
しかし、やはりマイケルとフィルに再び確執が生まれマイケルはUFOとの活動を休止状態にし、突如MSG名義でのアルバム 作成に入ります。
新たにスウェーデン人シンガーの“リーフ・スンディン”、を迎え、マイケルとは知り合いで以前イングヴェイと活動していた“バリー・スパークス”(ベース) と“シェーン・ガーラス”(ドラム)というラインナップで1996年、ウォーク・オン・ウォーターと同じく日本のレーベル「ゼロ・コーポレーション」から

「WRITTEN IN THE SAND」

をリリースしました。
この後、ヴォーカルにリーフ以外に“デヴィッド・ヴァン・ランディング”を迎え入れて、自身のデビュー25周年と言う事で 「STORY LIVE」と銘打ってツアーを行い、日本の中野サンプラザの公演は後に

「STORY LIVE」

というタイトルで、マイケル自身のレーベル「MSR」からリリースされました。
リーフとデヴィッドという2人のボーカルを起用したのは、昔のディープ・パープル(BURNアルバム時)のような理由ではなく、 幅広い声域をカバーできるデヴィッドがUFOや初代/二代目MSGの曲をプレイするのに都合がよかったかららしいですが、よく 考えると、リーフが少し気の毒のような気もします。



その後再びUFOと合流しUFOとツアーを行うことになりましたが、そのツアー中の1998年4月、中野サンプラザの 公演中に信じられない事件が起きてしまいました。


普通に数曲を演奏したあと、突如マイケルは意味不明な言葉を叫んだかと思うと、借り物の「#4」フライングVを床に叩きつけて壊し、 そのままステージを去ってしまいました。
その後、この件でポール・レイモンドと喧嘩になりポールに指の骨を折られる事態になりました。


このショッキングな事件によってマイケルはミュージシャンとしての活動は二度と無いだろうと思われていたが、約一ヵ月後には “ジョー・サトリアーニ”が主催する「G3」というツアーにちゃっかり出演しています。



これ以降、MSGでアルバムをリリースしてはツアーを行ったり、再びUFOと活動を共にしたりと「神」は迷走を続けます。
やがてUFOとは完全に縁を切り、自分のプロジェクトを進めていましたがその最中、晴天の霹靂ともいえる(かどうかは定かではありませんが)離婚に 端を発した詐欺事件に見舞われてしまいます。
マイケルがアメリカの法律を良く知らない事をいい事に、詐欺犯はマイケルから金という金を巻き上げてしまいました。
そして全財産を失い、生活のためにUFO時代から使っていた大切な愛機フライングVまでオークションで売り払い、神経失調症と なってホテルに閉じこもり酒を浴びる毎日を過ごすようになり、終いにはリハビリ施設に半年も閉じ込められる事態にまでなってしまいました。




AND NOW・・・



全てを失ったマイケルは、ファンや知人などのバックアップもあって復活し、再びフライングVを手にします。
さらには、「ディーン」というギター・メーカーからは、マイケル初のシグネチュア・モデルも発売されるなど、復帰に向けて 着々と足場を固めて行きました。

現在はガールフレンド(!)の“エイミー・シュガー”のアルバムに参加したり、“SHENKER−PATTISON”というプロジェクト をする傍ら、かつてのメンバーとのコラボレーション活動を行うなどしていますが、今後の彼の活動も(いろんな意味で)目が離せません。



マイケル・シェンカー、51歳。
若くして厳しい音楽ビジネス界に飛び込み、数々の苦難に苛まれてきた天才は、意図しない脚光におびえ、マネジメントには 傀儡として扱われ、ギタープレイ意外には対応できない事で常に苦しめられてきました。
しかし、彼のその才能は誰からも受け入れられてきた事は紛れも無い事実です。
彼が奏でてきたギター・フレーズは、その時々のかれが置かれた立場を、言葉の代わりに表現してきたといっても良いでしょう。
そしてこれからも、円熟の域に達した彼のプレイは、才能は枯れる事が無いという事を証明していく事でしょう。




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